ぼくのワンピース・彼等のワンピース

 

原作者付き漫画→続編小説の当シリーズ。

読書感想…というよりは自己への対話として雑感をまとめる。同時に、昨今吹き荒れるSNS上のヘイトへの答えとしてや、常々思ってきた信条をどこかに放てるように。

ぜんぶネタバレです。

 

出会ってしまったら、終わらない物語について。

 

 

《ーあらすじー》

 

主人公・神鳥谷 等(ひととのや ひとし)は大学一年に、街の洋品店で飾られていた一着のワンピースを手に取り、思わず鏡の前で自身に当てた。

それを同級生の佐原真人(さはらまさと)に目撃されてしまうことから、二人の関係は始まった。

彼らは7年ともに季節を過ごした。

等の親友・佐原真人は病によりなくなった。

 

7年後、佐原真人は自身のお別れ会と称して、珍妙な告別式をさせるよう遺言していた。

ドレスコード:正装(お手元の最も派手で華やかな美しい衣装 モーニング以外はモノトーン厳禁 新調はご自由に)

厳禁…強い言葉で服装のみならず、涙も禁じた。その場所には、必ず泣くであろう姉と母などは出席すら許さないという徹底ぶり。

お通夜も「そんなことしたらお通夜みたいになっちゃうだろ」と、拒んだ。

 

彼はそういう男だった。

 

等はというと、自身の中の女性服への強い願望をもて余し、そんな自分を他人に知られることに酷く怯えていた。

男でありながら、女になりたいわけでもなく、それなのにワンピースが何故だか着たくて仕様がない自分とは一体何なのか。

 

問い続けて問い続けた7年後。

等は、真人が贈ったドレスを着て、その日を訪れた。周囲にはうさぎのキグルミ、紋付袴やチマチョゴリなど、おもに礼服で着飾った故人の友人らが参列した。

 

自分が何者であるか迷う等と、

迷わずまっすぐ歩いてきた真人。

本作はお別れ会から始まり、思い出語りからその7年の軌跡が紐解かれる。

 

  • 用語について。

まず、特異なその作風について触れよう。

目を引くのは、一般のエンタメでは珍しい単語が頻出する点だ。精神疾患について、学問について、とくにジェンダー関連。

たとえば、等が初めて真人の部屋に連れられた時も、自身のアイデンティティについてこのようなやり取りがあった。

等「Facebookジェンダーの選択肢が58あるのを知ってるか!?(中略)俺はどれにも当てはまらない!」(中略)

真人「それはおまえ…どう考えてもOtherかgenderqueerだろ」

(中略)

等「おまえgenderqueerの意味ちゃんと知ってるか!?」

真人「本当にごめんなさい 全然わからないのに適当なことを言いました」

等「その通り!genderqueerはちゃんとした意味が誰にもわからない!」

ここらへんの単語チョイスは、私みたいに多少なりジェンダー論をかじった人ならば、クスリと笑ってしまうところではないだろうか。

ニュアンスは文脈によって全然違うのだけど、概念としての「queerクィア)」には、定義する権力を批評する性質があると思う。ゆえに、意味を"答えない"ことがむしろ誠実な答えである…という、非常に難解な言葉だ。(私の解釈だけど)

 

しかし、この58のリスト…。今見ると日本語圏でも見るようになった名前がいくつかあった。

ジェンダーフルイドとか、ノンバイナリー…。

逆に古くからあるMTFなどは、このところ名乗る人はやや減ってきてる印象がある。

また、懐かしいものとして「ジェンダーフリーという言葉はあの人にこそ必要だった」という台詞があった…。ジェンダーフリー論争がお茶の間のテレビでも騒がれてた世代からすると、色々感慨深い。

なるほど、主導してきたフェミニズムの手から離れ、ジェンダーフリー概念は近年ゆる〜い雰囲気で再登場してる節はあるが…。セリフ自体の真意はなんだろう。

 

このセリフは、あるトランスジェンダーとおぼしき人物に関するものだが、「ジェンダーフリー」概念が日本で流通し、保守派からバッシングを受けた当時…トランス的なものを包摂するような言葉では、必ずしもなかった。*1

当時、保守派はジェンダーフリーを「男女の性差を否定し、性的少数者のような人間を作る概念だ!」と攻撃したのに対し、一部フェミニストはその差別性を批判せずに対抗してしまったことも忘れてはならない。この意味において、「ジェンダーフリーはあの人にこそ必要だった」というセリフは、かつて弱者が取りこぼされた歴史への後悔としても読める。

そこまで作者が洞察されていたかは謎だが…もしそうだとすると、かなり面白い。

 

原作自体は16年に書かれたものであるが(漫画連載にあたり何度も書き直されたそう)、用語のトレンド変遷を楽しめる貴重なエンタメだ。

 

…作者は、この内容がいつか古くなるであろうことを恐れない、とあとがきに書いてらしたが、確かに時代は確実に変化している…。

良くなったところもあれば、随分悪化したところもある。

が、同じではない。

 

それこそ、社会の変化にあわせて(差別を助長しないために)自分を説明する名乗り方を変える当事者もいる。

この作品のおもなテーマとしても、自分は何者か?というー名前ー問題がある。

…正直、等というキャラクタも、それぞれの名前にどこまで理解があったかは疑問が残る。

彼が選ば(べ)なかった名前にも、自身に当てはまるものがあったような気が、私にはする。

…けれど人間は、「なんでかシックリ来ない」とか、そういう一個一個のフィーリングで自己形成してゆくものだろう。

その意味で彼の迷走はリアルなものだと言えそう。

 

そういえば漫画担当者も性的少数者を描くに当たり、色々調べたり葛藤がお有りだったと、あとがきで語られている。

とはいえ、べつに巻末に参考図書が記載されてるわけではなく*2、あくまで専門知識の必要としない、ライトな本となった。

けっきょく…。

葛藤のすえ、そこにいる人物を愚直に描くのみ、と考えた作家たちの決意が、物語の核心を成していたように思う。

名付し難い、個性豊かな登場人物たちあふれる本作。

様々な他者と、私たちは共にある…。そういう実感を得られるお話ではないだろうか。

 

ストーリーでは、様々な生き辛さが個人の視点から語られている。

この極めてプライベートな語り口だからこそ、描ける揺らぎがあったと思う。

 

等は自分のことを、「いいえ、自分は衣装倒錯者ではありません。オカマでもありません。性同一性障害でもありません。女装でもありません。…etc」などと、否定形でしか説明できない。

「子供の頃から女の服が着たくて仕方がないが、18歳まで着たことがなく、真人の部屋でお下がりのワンピースを着てる神鳥谷等、ということしか分からない」のだと。

具体的な現状以外に語るべき名前が、彼にはない。*3

しかし、本来セクシュアリティジェンダーとはそういうものではなかったか。

「私の初恋は○○の頃で…最近○○なファッションが好きで…」

等の言ってることをただ文字にすれば、こんな雑談とさして変わらないことが見て取れる。

たとえば職種は現在と未来で変わり得るが、同じくジェンダーも現状からしか当然語られない。…明日、私たちのジェンダー(表現や認識)が変わらない保証は、どこにもない。

 

とはいえ、人と違うことは、そう簡単に割り切れるものではない。

等が小学校に上がる前、ピンクのランドセルをねだると家族は騒然とした。その末、紺色のランドセルを与えられた等。

たしかに、紺色のランドセルは彼の平穏を保証した。もしピンクのランドセルを背負っていれば、中傷を受けたであろうことは想像に難くない。

 

家族は心配だったのだという。

《人と違う自分に耐えられない》息子が。

そんな心配をさせた自分には…特別な理由が必要だと等は思った。

「名前がつけば……そういうものに生まれて来たんだからしょうがないと思えるかもしれない

家族にも だから許してくれ と言えるかもしれない

(中略)

病名がつけば治せるかもしれない」

とあるように、彼の痛みは自分と誰かとの関わりの上に生じていた。しかし、同時にそれは、孤独さをも表していた。

 

  • 迷子のみんな

作中、何度も迷子という言葉が出る。

等は迷子だ。

 

じつは……等のよく着ていたお下がりのワンピースとは、真人の姉・友梨のものであった(不憫!)。

ある日、クローゼットの異変を察した友梨はノックもせず真人の部屋に乗り込む。そこで自分の服を着る10代の男子を見つけてしまう。

もちろん激昂して弟の真人も責め立てる友梨だったが、等のおぼつかない様子に勢いをそがれる。

話を聞けば…彼の迷走の影がうかがえたから。

 

自分を迷子だと語る等に、これなら着てもいいとお下がりを与え、「ゆっくり考えて。自分が何者か分かったら私にも教えて。迷子は大変よ。遭難しないように」と友梨は言葉をかけた。

そんな友梨自身はといえば、家は裕福で才色兼備で「この出来すぎた人生…どうしましょう!本当にどうしましょ」などとうそぶく。

しかし彼女もまた迷子だった。

 

真人が13歳の頃、遺伝性の心疾患が判明した。それを知った友梨は、弟をなんとか救うため医者になった。

何があったかは詳しく描かれていないが、すこし神経質で弱い自分を弟の真人はいつも、「良いよ」と許してくれたのだという…。

ずっと、弟のいる世界を生きてきた。

弟の、5年後の生存率3/4。それを過ぎてなお、無理のある夢を見た。分かりながらも、なんとかなると信じて、彼女は医者の道を選んだのではないか。

彼女は、作中の最後まで泣き続ける日々を送っているようだ。彼女のことを、「一番奪われた」人と、等は言った。

 

また真人には、それはそれは心配な弟もいた。

彼の名前は佐原苫人(とまと)。

彼の長い反抗期は、その緑黄色野菜じみた名前とともにあった。周りからトマトトマトとからかわれ、排除され、親に改名をせがむほどだった。

ただそれだけのこと…ではあるが、彼にとってそのことが最も重大な事で。

 

そんな弟について、真人は「苫人は 名前が苫人じゃなければ苫人じゃなかった」と言う。

どういうことか?

苫人と名付けた親は荒れる苫人に、改名も出来るからと謝った。

ならば早速変えてやろうと新しい名前を考えた折、苫人ははたと気づく。

でもそんな簡単に変えられる名前のことでずっと死ぬほどつらかった俺ってなんなんだよ

名前で呼ばれることが辛くて辛くて死にたい殺してやりたいって思ってたことが一番……俺のでかい気持ちで

そいつ捨てちゃっていいの?俺ずっとそいつだったのに捨てたくない

本当は

この気持ちは、とてもわかる気がする。自己否定せざるを得なくてつらい、けれどその痛み自体が自分を成していて、否定したら自分ごと無くなりそうで。そして堂々巡りになっちゃうやつだ。

 

そうした迷子たちに真人はこう言い放つ。

 

  • 人は人 自分は自分

 

真人

「俺はおまえが何でそんなに悩むのか実は全然わかってない

着たけりゃ着ればいいといつも思ってるし

もし俺なら平気でそうするのにって思ってる

今ワンピースで歩けって言われても俺はできるから」

しかし…「おまえはおまえ」と言われてところで、一つも納得できない等。

おまえは自分ができることは他人ができて当たり前と思ってるのか

自分が痛くないことは他人も痛くないと信じてるのか

…このすれ違いを、彼らは何度も繰り返す。

 

どちらの考えにも私は馴染みがある…。自分に出来るんだから普通にすればいいのにと言って、その「普通」が普通でない人を傷つけたり。逆に、簡単に言ってくれるなと傷ついたり。

この亀裂はしかし、二人の交差点にもなってゆく。人の心の機微に疎い真人に、初めての気づきを等は与えていたのだ。

気にしいな弟の苫人が心配で心理学を選んだ真人にとって、人と違う痛みを知ることは必要なことでもあった。

 

そこから様々な出来事もありながら3年、二人(正確には苫人含めて三人)は真人の部屋で静かな時間を共にした。

 

しかしある時、真人は倒れる。

心疾患の発作を起こしたのだ。

自身の叔父も同じ病気だったという。叔父の場合、移植リストにのり、最後まで頑張ったものの、甲斐なく力尽きた。

その姿を隣で見てきた真人は、自分はその努力を選ばないのだ、と言う。

つまり、移植リストに登録せず、完治を目指さないと決意していたのだ。それは遠からぬ死を意味する。

その態度に、等は荒むほど当惑した。

 

病気をうち明かす頃、もう彼らには友情が芽生えていた。

 

症状が進行する真人に、等は移植リストにならんでほしいと一度だけ頼んだ。

しかし真人は、頑として拒む。

納得いかない等はこれまでも何故と問うてきたが、返ってきた言葉はかつて自身が真人に訴えたことと同じものだ。

 

俺は叔父さんみたいにはがんばれないし俺は闘えない

 

俺は叔父さんとは違う人間だから

 

叔父さんにできたことでも俺にはできないよ

彼の口からは、理由らしい理由は大して出てこない。服薬もするし生活習慣にも気をつける。けれど、彼は、「がんばらない」という。

 

なぜ?

自分でも分からない…。

分からないけど、がんばれないのだと。

「俺は誰のことも否定しない。だから、がんばれない俺のことも否定してくれるな」

そう釘を刺されて、窮する等と家族。

 

思えば彼はつねに、遺す側として自分を振る舞ってきた。

人より早くいなくなる自分だから…親友や恋人を作らないつもりだった。けれど同時に、死ぬからって普通に生きてちゃいけないの?とも投げかけたり…。(それは等に対する方便でもあるだろうが)

 

彼は、私からすれば大いに矛盾だらけだ。

 

そんな真人の他人に対するスタンスは常に

「人は人、自分は自分」

だからこそ、誰のことも否定しない。

 

疾患を持って生まれたことも含めて、自分の人生をとにかく疑わない、とくに不満もない。

その性分が、神様からもらった贈り物だと真人は語る…。

けれどそのスタンスも…

真人

 

自分に特に不満がない

疑問もない

その贈り物大切にしてたんだ俺

まっすぐ歩いてくために

生きてくために大切にしてたのに

思ったようにいかないもんだな

等に出会って5年…気づけば宝物は過去形になっていた。

宝物なスタンスと、涙を禁じたのはまったくの無関係ではないような気がする。

真人

「泣くと人って弱くなると思うんだよ俺は

泣いてスッキリすることもあるかもしれないけど泣いても終わらないことはどうすんの

(中略)

何か悲しいことがあっても頼むから泣かないで」

お前は脆くて迷子なんだからと、そう頼む真人はどこか悲しげで…。

 

通夜もしていらない。

他人が泣くための場所を用意させない…。

そのことは、彼にとって自分が「まっすぐ生きる」ために必要な布石だったのではないか。

また、ここで思い返すのは苫人の

「そいつ捨てちゃっていいの?俺ずっとそいつだったのに」

という言葉だ。

死は悲観すべきではなく、皆のように「なぜ自分はこうなのか」を悩み泣くことは、そう生まれついた自分の運命を否定することに他ならない…。

彼には…そう思えたのかもしれない。

だからなのだろうか、人にもそのスタンスを求めてしまう?

頑張って頑張って実らない事を知る彼は、死ぬことすら否定したくはなかった?

実のところ、死を誰より恐れていたのは彼自身だったようにすら思えてくる。…正直、よくはわからない。治療に一縷の望みはあった…なのに。いまも私は読解に苦しんでいる…。真人の叔父ならば何かわかっただろうか。

 

しかし、情緒不安定にならないための宝物も、やがて変容していったのだが…。

 

…そういえば。

出会って間もない当時の真人は、男の等が着る姿を見て、初めて「ワンピースが綺麗だ」と思ったそうだ。女性が着てるそれを見ても思わなかったのに。

 

 朝焼けの色をしたワンピース。

 

ひょっとして…美しく思える色彩を見つけた引き換えに、真人は気づかぬうち、等と一緒に「迷子」に陥っていたのだろうか?

 

そう。彼の願いは頑なで強いけれど、どこか孤独ではなかったか。

彼は…ずいぶんと自分本位に生きていたようだけど、自分が先に逝った後の世界をどうしようもできない事に、誰かがその世界に置き去りにされる事に、幼くして向き合って生きてきたのではないか。

そんなむごい日々は、むしろ孤独な心でしか耐えられそうもない…。

 

 

じつは等は、続編小説のなかでワンピースをもう着たいとは思わなくなったと言っている。

 

さらに、漫画版でも心境の変化が語られる。

「おまえが見ないなら前ほど着たくない

………不思議だな

これはずっと俺一人の大きな問題だったのに

俺だけのことだったのに

なあ

俺ずっと一人で生きてきたのに」

真人

「半分俺のか」

 

小説編では、骨格が合わなくなったのと、もう一生分着たからかと自己観察されていたが、どうだろう。

この点は、作中で『セクシュアリティに関する感情は生まれついたら変わらないものではないのか?』と疑念も提示されていた。

 

…私の記憶では、セクシュアリティ形成とは、生まれと環境双方が複雑に絡み合って出来るとする学説が…少なくとも一昔前は、世界的通説だったはずだ。*4

だがそんな通説があるからどうこう、ではなく、そういうこともあるのが、人間だと私は思う…。

真人とは逆に、自分の有り様を否定する人間に囲まれていれば、より渇望が強まる…そんなエピソードも聞く。

 

セクシュアリティすらも、《私》と《あなた》において、培われる何かであるように思う。

揺れ動き、捉えようがないけれど、そもそも自分だけで成り立つものなんて、人生で一つもなかったではないか…。

そしてそのことは、人を孤独から開放する。ワンピースがこんなに綺麗なことも、ふたりがまったく違う人間として出会わなければ、気づきもしなかったことだ。

 

ある日、もう自室に戻ることのなくなった真人が病室でこぼす。

真人

「俺なんで人より早く死ぬのかな

初めて考えた

俺にもできたぞ等

『なんで俺』『人と違うのかな』」

「……思うなよ

おまえはそんなこと」

真人

「俺は自分のことは自分だけがわかってたらいいって思ってた

(中略)

だけどそれって

俺も一人だったってことじゃね?

一人じゃなくなったらわかった気がする

 

死にたくないなあ」

 

だれかと交わって初めて、人はその人に生まれるのかもしれない。

 

等は他人のこと(自分の傷)ばかり考えてワンピースを着れなかった。

真人は自分のこと(他人の傷)ばかり考えてまっすぐ歩いてこれた。

けれど、それはともに孤独の裏返しだった。

 

無頓着に「人それぞれ」と片付けることは簡単だけれど、お互いが自分を変えて違いを受け入れることとは、別なのだ。

恐れを知ることで脆くなったとしても、知らなければ近づけない心がある。それは、絆と呼べるのではないか。

 

等は今後…ワンピースという形はもう纏わないかもしれない。

けれど、思い出になってしまう朝焼けの色を残して、彼らは自分のままで足りることを、分かち合えたのかもしれない。

残されたものを持ち続けて未来へ生きる、世界は美しいと等は言った。

自分を否定しない力を、間違いなく真人は朝焼け色と一緒に等にくれた

また、かつて二人は互いにこう言い合った。

誰かを……

おまえを与えられるつもりはなかったよ

けれど、お互いを与えあってしまった。そんな人たちのお話だった。

 

そして重要な示唆として、人と違うことが辛い等に真人は「人と違う の、人ってナニ?」とかつて問うていた。

それがずっとわからなかったんだ俺は

おまえを愛した俺も人で

おまえが愛した俺も人で

おまえとは違う

ただ違う

違うけど存在してる

と等は独りごちる。

 

よく言う、「世間」や「人」とは誰のことか?

人生に迷子にならない人たちか?でも、そんなことを誰が決めたというのだろう。

 

ここはきっととても重要で、はっきり言えば等や、他の登場人物たちの苦悩は社会のジェンダー規範による側面を無視してはならない。

 

等の小さい頃のエピソードとして、登下校途中の工事現場に、男らしい格好をした女性(に見える)人との交流がある。

その人は小学生から「女のくせに」となじられ、同僚には邪険に扱われていた。しまいには、一緒のお風呂入れないからと独り寒空の下、水道で体を拭っていたんだとか。*5

それでも…その人はいつも笑っていた。幸せそうだったと等は思い返す。

等はそれを、許せない、と言った。

性同一性障害という言葉すらなかった時代…あんな生き方がその人の精一杯の幸せだったことが、許せないと言った。

等自身、真人の部屋でのみワンピースを着れる(が外では着れない)事を、幸せだと語っている。

迷子というとき、誰が敷いた道を、誰がどうして迷っているのか?

私達はこの意味を考えるべきだ。

時代や社会を変えるために出来ることは少ない…。

けれど、だからこそ、彼等のプライベートでミクロな視点から描かれる人生を読むことには、大きな意味がある。

人と違うことを恐れる青年と、人と違うことを疑問に思わない青年。ふたりが孤独のままなら、真人は迷う人の心に気づけず、等は迷子であることを否定せざるを得なかっただろう。

 

かれらが交わるとき、どうしようもなく痛みが伴った。

作中にもある通り、人を、自分を、否定しないで生きることはそんなに簡単なことではない。けれど、自分だけなら守られた価値観を崩すことで、やっと理解できる何かがある。それは希望だと思う。

私たちは、そもそも違うことに目をそらしては交われないのではないか。

私はそんな葛藤をなかば約束のように持っている。

 

様々な違いから憎しみ合うことが多い時代。どうか、私とあなたが違う人間であることも愛してほしいと、私は願う。

泣かないよ

天国に行くとか生まれ変わるとかおまえはおまえで行きたいとこ行け

自由なんだから

俺は俺でなんとかやってく

……あ

俺にもちょっとできた

『人は人』『自分は自分』

 

ところで続編では、等はけっきょく泣くことができたようだ。

泣いてくれるなという約束…これはしかし、最後に残った真人の孤独もはらんでいたように思う。

であるならば、等は6年を経てようやく孤独な約束を、優しさごと持てるようになったのかもしれない。

交わしたものに、終わりはないと。

 

  • この作品においてワンピースとは…

他者との間でどうしても視えてしまうものであり、ゆえに他者と交差する装置であったと思う。

隠していれば無かったことにできた傷を晒して、その傷を誰かが美しいと受け止めてくれたなら、その人の傷もまた受け止められるかもしれない。

違う人間だからこそ、できることだ。

 

  • 恋ではなかった?

最後に。

恋をしないつもりだった真人が、じつは等にうっかりキスをしてしまうシーンがある。そして恋をするのは反則だったと、親友への謝意を手紙に遺した真人。

これを等は、恋と勘違いした幼さであると、解釈していたのだ。

なんでも、恋を自分に禁じていたところに、他人のことばかりいじましく考える等を見て、初めて人を「可愛い」と思ったことを、恋に履き違えてるのだと。

 

しかし…それを言えば弟である苫人だって同じではないのか?

 

続編小説では、記憶が曖昧になるにつれ、真人が言っていた言葉の意味が、当時自分の思っていたことと違ったのではないか…という葛藤が描かれている。

それぞれの登場人物たちの、おなじ言葉のようでも意味が違う…わかり合えない困難が度々強調され、「音が似てる外国語のよう」とすら嘆く。

 

でも、それでもかまわないと等は思い至るのだ。たとえ彼への理解が実際とかけ離れていたとしても、人はこうして時に憎み、愛せもするのだからと。

「記憶のなかで食い違っても真人は真人…」と言えるならば、勘違いに見えたとしても、それすら恋だと言えないのかなぁ。

できれば、等にもそんなふうに受け取ってほしい。私の勝手なワガママだけれど。

 

*1:そもそも、本来ポジティブに使われだしたというより、むしろ「教育はジェンダーフリーでは良くない、ジェンダーセンシティブであるべきだ」という批判的主張から出てきた背景がある。(海外の教育哲学から誤訳的に輸入された)

*2:続編小説では作中に実際出てくる関連図書などの記載はあります

*3:昨今、自分が女であるとか男であるという「性自認」を、うさん臭い「自称」として叩く風潮が政治にまではびこっているが、普通と見なされないアイデンティティを獲得する困難さへの想像力が甚だしく欠如している。そんな現代で、この《語れなさ》は非常に重要な表象となるだろう。

*4:では何故、わざわざ「生まれつき変わらない」論を作中台詞で示されたかといえば、「セクシュアリティは矯正可能だから普通になれ」という圧力が社会にあるからだと推測する。作者の意図としては、等の変化をそうした圧力のダシに使われてはならないという危機感があったのでは?…私は積極的には同意しないが、「生まれつき変えられない」論法は権利獲得運動においてスタンダードな意見である。そういう対外的感覚は、マイノリティのお話を描く作家には比較的多い。責任感のある描写に読めた。

*5:なぜその人ばかりが寒い思いをしなければならなかったのか?胸があり、男風呂には入れないし、女風呂が仮にあっても使いたくなかったのか?でも、それが仕方ないのだというなら、いっそその人以外全員が水道を使って、逆にその人がゆっくりお風呂に浸かるでも良かったのではないか。なぜ逆はあり得ない?